December 30, 2025

金光 史さん
愛媛県西条市丹原町を拠点に活動する果樹農家。
観光果樹園 きらり果樹園 を夫婦で営み、柿・キウイ・ぶどうなどを栽培。
地域の有志とともに CREW TAMBARA を立ち上げ、農業を起点とした地域の営みづくりにも関わっている。
拠点:愛媛県西条市丹原町
関連リンク:CREW TAMBARA 公式サイト
ーーーーーーーーーー
果樹畑が広がる西条市丹原。
この土地で、農業を「仕事」として、そして「生き方」として選び続けてきたのが金光さんだ。
もともと農家になるつもりはなかった。
農協職員として農家を支える立場にいた金光さんは、ある違和感をきっかけに、自ら畑に立つ側へと踏み出す。何もないところから始めた農業は、やがて家族や地域を巻き込みながら、ひとつの営みとして形を変えていった。
今回のインタビューでは、「農業でどう生きるか」という正解を探すのではなく、なぜその選択を重ねてきたのかを手がかりに、金光さんがこの土地で積み上げてきた時間をたどる。
ーーーーーーーーーー
「正直、最初は自分が農業をやるとは思ってなかったですね」
金光さんはそう振り返る。
もともとは農協職員として、農家を“支える側”にいた。
作り手の相談に乗り、作物や経営の話を聞く立場。
けれど、現場を見れば見るほど、ある違和感が積み重なっていった。
「このままじゃ、続かないなって」
高齢化が進み、畑は荒れていく。
“農業は大変だ”“農業では食べていけない”という言葉が、当たり前のように交わされていた。
その空気に、どうしても馴染めなかった。
農業をやろうと決めたとき、周囲からは止められた。
「農業では生きていけないぞ、って」
善意からの言葉だったと思う。
でも、金光さんの中には強い引っかかりが残った。
「じゃあ、今やってる人たちはどうなるんだろうって」
“できない理由”はいくらでも並ぶ。
でも、やらなければ始まらない。
「生きていくために、やるしかなかった」
それが、当時の正直な感覚だった。
畑も、農機具も、倉庫もない。
ゼロからのスタートだった。
助けてくれたのは、地域の人たちだった。
「畑を貸してくれたり、機械を使わせてくれたり」
技術よりも先に、人とのつながりがあった。
農業は一人ではできない、ということを、最初の段階で思い知らされた。
「農業って、個人事業みたいに見えるけど、全然一人じゃないんですよね」
軌道に乗り始めると、周囲からはこう言われるようになる。
「もっと広げたら?」
でも金光さんは、あえて規模拡大を急がなかった。
「無理したら、続かないと思ったんです」
体力、家族の時間、暮らしのバランス。
どれかが崩れれば、農業そのものが成り立たなくなる。
「長く続けることのほうが、大事でした」

一方で、周囲の畑は少しずつ荒れていった。
「自分のところだけやってたらいい、って話でもないなって」
農地はつながっている。
一枚が荒れれば、周りにも影響が出る。
「地域があってこその農業なんですよね」
この感覚が、金光さんの中で大きな転換点になった。
地域のことを考え始めた頃、自然と人が集まるようになった。
「丹原って、いい場所なのに、立ち寄る場所がないなって」
宿があって、果物があって、人が集まる。
そんな拠点があれば、農業も、地域も、少し違って見えるかもしれない。
それが「CREW TAMBARA」につながっていく。
「最初は、道の駅みたいなものがあったらいいな、くらいでした」
でも、同じ方向を向く人が少しずつ増えていった。

金光さんが大事にしているのは、「関係性」だ。
観光客でも、移住者でもなく、「また帰ってくる人」であってほしい。
「おばあちゃんちに来る、みたいな距離感がいいなって」
農業を軸に、人が行き交い、顔が見える関係が続いていく。
それは、効率とは真逆のやり方かもしれない。
でも、金光さんにとっては、いちばん現実的な選択だった。
農業は、儲かるかどうかだけで語れない。
「生活そのものなんですよね」
畑に立ち、季節を感じ、家族と暮らす。
その延長線上に、仕事がある。
「だから、続けたいと思えたんだと思います」
やりすぎない。無理をしない。でも、やめない。
金光さんは今日も、この土地で選び続けている。

December 30, 2025

金光 史さん
愛媛県西条市丹原町を拠点に活動する果樹農家。
観光果樹園 きらり果樹園 を夫婦で営み、柿・キウイ・ぶどうなどを栽培。
地域の有志とともに CREW TAMBARA を立ち上げ、農業を起点とした地域の営みづくりにも関わっている。
拠点:愛媛県西条市丹原町
関連リンク:CREW TAMBARA 公式サイト
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果樹畑が広がる西条市丹原。
この土地で、農業を「仕事」として、そして「生き方」として選び続けてきたのが金光さんだ。
もともと農家になるつもりはなかった。
農協職員として農家を支える立場にいた金光さんは、ある違和感をきっかけに、自ら畑に立つ側へと踏み出す。何もないところから始めた農業は、やがて家族や地域を巻き込みながら、ひとつの営みとして形を変えていった。
今回のインタビューでは、「農業でどう生きるか」という正解を探すのではなく、なぜその選択を重ねてきたのかを手がかりに、金光さんがこの土地で積み上げてきた時間をたどる。
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「正直、最初は自分が農業をやるとは思ってなかったですね」
金光さんはそう振り返る。
もともとは農協職員として、農家を“支える側”にいた。
作り手の相談に乗り、作物や経営の話を聞く立場。
けれど、現場を見れば見るほど、ある違和感が積み重なっていった。
「このままじゃ、続かないなって」
高齢化が進み、畑は荒れていく。
“農業は大変だ”“農業では食べていけない”という言葉が、当たり前のように交わされていた。
その空気に、どうしても馴染めなかった。
農業をやろうと決めたとき、周囲からは止められた。
「農業では生きていけないぞ、って」
善意からの言葉だったと思う。
でも、金光さんの中には強い引っかかりが残った。
「じゃあ、今やってる人たちはどうなるんだろうって」
“できない理由”はいくらでも並ぶ。
でも、やらなければ始まらない。
「生きていくために、やるしかなかった」
それが、当時の正直な感覚だった。
畑も、農機具も、倉庫もない。
ゼロからのスタートだった。
助けてくれたのは、地域の人たちだった。
「畑を貸してくれたり、機械を使わせてくれたり」
技術よりも先に、人とのつながりがあった。
農業は一人ではできない、ということを、最初の段階で思い知らされた。
「農業って、個人事業みたいに見えるけど、全然一人じゃないんですよね」
軌道に乗り始めると、周囲からはこう言われるようになる。
「もっと広げたら?」
でも金光さんは、あえて規模拡大を急がなかった。
「無理したら、続かないと思ったんです」
体力、家族の時間、暮らしのバランス。
どれかが崩れれば、農業そのものが成り立たなくなる。
「長く続けることのほうが、大事でした」

一方で、周囲の畑は少しずつ荒れていった。
「自分のところだけやってたらいい、って話でもないなって」
農地はつながっている。
一枚が荒れれば、周りにも影響が出る。
「地域があってこその農業なんですよね」
この感覚が、金光さんの中で大きな転換点になった。
地域のことを考え始めた頃、自然と人が集まるようになった。
「丹原って、いい場所なのに、立ち寄る場所がないなって」
宿があって、果物があって、人が集まる。
そんな拠点があれば、農業も、地域も、少し違って見えるかもしれない。
それが「CREW TAMBARA」につながっていく。
「最初は、道の駅みたいなものがあったらいいな、くらいでした」
でも、同じ方向を向く人が少しずつ増えていった。

金光さんが大事にしているのは、「関係性」だ。
観光客でも、移住者でもなく、「また帰ってくる人」であってほしい。
「おばあちゃんちに来る、みたいな距離感がいいなって」
農業を軸に、人が行き交い、顔が見える関係が続いていく。
それは、効率とは真逆のやり方かもしれない。
でも、金光さんにとっては、いちばん現実的な選択だった。
農業は、儲かるかどうかだけで語れない。
「生活そのものなんですよね」
畑に立ち、季節を感じ、家族と暮らす。
その延長線上に、仕事がある。
「だから、続けたいと思えたんだと思います」
やりすぎない。無理をしない。でも、やめない。
金光さんは今日も、この土地で選び続けている。

December 30, 2025

金光 史さん
愛媛県西条市丹原町を拠点に活動する果樹農家。
観光果樹園 きらり果樹園 を夫婦で営み、柿・キウイ・ぶどうなどを栽培。
地域の有志とともに CREW TAMBARA を立ち上げ、農業を起点とした地域の営みづくりにも関わっている。
拠点:愛媛県西条市丹原町
関連リンク:CREW TAMBARA 公式サイト
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果樹畑が広がる西条市丹原。
この土地で、農業を「仕事」として、そして「生き方」として選び続けてきたのが金光さんだ。
もともと農家になるつもりはなかった。
農協職員として農家を支える立場にいた金光さんは、ある違和感をきっかけに、自ら畑に立つ側へと踏み出す。何もないところから始めた農業は、やがて家族や地域を巻き込みながら、ひとつの営みとして形を変えていった。
今回のインタビューでは、「農業でどう生きるか」という正解を探すのではなく、なぜその選択を重ねてきたのかを手がかりに、金光さんがこの土地で積み上げてきた時間をたどる。
ーーーーーーーーーー
「正直、最初は自分が農業をやるとは思ってなかったですね」
金光さんはそう振り返る。
もともとは農協職員として、農家を“支える側”にいた。
作り手の相談に乗り、作物や経営の話を聞く立場。
けれど、現場を見れば見るほど、ある違和感が積み重なっていった。
「このままじゃ、続かないなって」
高齢化が進み、畑は荒れていく。
“農業は大変だ”“農業では食べていけない”という言葉が、当たり前のように交わされていた。
その空気に、どうしても馴染めなかった。
農業をやろうと決めたとき、周囲からは止められた。
「農業では生きていけないぞ、って」
善意からの言葉だったと思う。
でも、金光さんの中には強い引っかかりが残った。
「じゃあ、今やってる人たちはどうなるんだろうって」
“できない理由”はいくらでも並ぶ。
でも、やらなければ始まらない。
「生きていくために、やるしかなかった」
それが、当時の正直な感覚だった。
畑も、農機具も、倉庫もない。
ゼロからのスタートだった。
助けてくれたのは、地域の人たちだった。
「畑を貸してくれたり、機械を使わせてくれたり」
技術よりも先に、人とのつながりがあった。
農業は一人ではできない、ということを、最初の段階で思い知らされた。
「農業って、個人事業みたいに見えるけど、全然一人じゃないんですよね」
軌道に乗り始めると、周囲からはこう言われるようになる。
「もっと広げたら?」
でも金光さんは、あえて規模拡大を急がなかった。
「無理したら、続かないと思ったんです」
体力、家族の時間、暮らしのバランス。
どれかが崩れれば、農業そのものが成り立たなくなる。
「長く続けることのほうが、大事でした」

一方で、周囲の畑は少しずつ荒れていった。
「自分のところだけやってたらいい、って話でもないなって」
農地はつながっている。
一枚が荒れれば、周りにも影響が出る。
「地域があってこその農業なんですよね」
この感覚が、金光さんの中で大きな転換点になった。
地域のことを考え始めた頃、自然と人が集まるようになった。
「丹原って、いい場所なのに、立ち寄る場所がないなって」
宿があって、果物があって、人が集まる。
そんな拠点があれば、農業も、地域も、少し違って見えるかもしれない。
それが「CREW TAMBARA」につながっていく。
「最初は、道の駅みたいなものがあったらいいな、くらいでした」
でも、同じ方向を向く人が少しずつ増えていった。

金光さんが大事にしているのは、「関係性」だ。
観光客でも、移住者でもなく、「また帰ってくる人」であってほしい。
「おばあちゃんちに来る、みたいな距離感がいいなって」
農業を軸に、人が行き交い、顔が見える関係が続いていく。
それは、効率とは真逆のやり方かもしれない。
でも、金光さんにとっては、いちばん現実的な選択だった。
農業は、儲かるかどうかだけで語れない。
「生活そのものなんですよね」
畑に立ち、季節を感じ、家族と暮らす。
その延長線上に、仕事がある。
「だから、続けたいと思えたんだと思います」
やりすぎない。無理をしない。でも、やめない。
金光さんは今日も、この土地で選び続けている。
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